門を叩きなさい
求めなさい そうすれば与えられる 探しなさい そうすれば見つかる 門を叩きなさい そうすれば開かれる だれでも 求めるものは受け 探すものは見つけ 門を叩くものには開かれる
はい。新約聖書のマタイによる福音書7章7-8節です。有名な聖句ですね。
わたしはクリスチャンではありませんが、
中学から大学までキリスト教主義教育の学校に通っていたので
聖書や讃美歌には、多少の馴染みがあるのです。
中学と高校は、毎日礼拝がありました。
黙想→讃美歌→聖書朗読→お話(牧師さんだったり、教員だったり)→お祈り→黙想
一番簡単な形はこんなで、15分?20分?くらいだったと思います。
今日引用した部分は、毎日の礼拝で、よく、本当によく読まれる部分でした。
この聖句、皆様はどう思われますか?
まず「んなわけあるかいな(関西弁)」って、きっと思いますよね。
叩いても開かない門もある、そういうことを、私たちは知っています。
でも、
開くか開かないかわからないのであれば、まずは叩いてみましょうよ
開くように、考えましょう
開かなければ、どうしましょう
そもそも何を望んでいるのでしょう
聖書は、そういうことも考えなさいよ、と言いたいのだと思います。
(間違っていたらごめんなさい)
なので、
とりあえず、やってみなさい。
待っているだけでは、何も起こりませんよ。
努力しなさい。
そんなお話につなげるために引用されることが多かったように思います。
さて
当時、ハイティーンのわたしはどう感じていたか。
実は、はしたないような、ガツガツしてカッコ悪いような、図々しいような
そういうイメージがあって、あまり好きな聖句ではありませんでした。
それを現すところが、
たとえばバイトを探すとき
「誰にでもできる簡単なお仕事です」と書いてあるものに応募するような
ある部分には変な遠慮があるというかなんというか、そんな人でした。
(なんですけど、いきなり体育会のマネージャーになったりするので、生き方全般で「飛び込まない」わけではなかったんですけど)
えー? あなたがいつも書いていることと違うやん!(関西弁)
と思われますか? そうなんですよ。わたし変わったんですよね。
だから、もしこういう思いにとらわれて、全開の自分が出せていない方がおられるなら
気持ちよく進むためのお手伝いがしたくて、コーチになりました。
ということを、ふと思い出したので書いてみました。
そらー
謎のもしゃもしゃ植物