人生グラフを書いてみた- my story- 1

あの、よく聞く機会がありますよね。 あれ、人生のグラフ。結構、就職活動で書く人が多いのでしょうかね。

わたしも作ろう、と思いつつ、延ばし延ばしになっていましたが

今少しPRの基本を学んでいて、ストーリーをお知らせすることは大切だと思ったので

さっと作ってみました。

なんせ文章が長くなったので、今週はそれを分割して更新します。

最終回には、ああだからコーチをやっているのね、と伝わればいいなと思います。

 

今日は、このあたり

コーチング, コーチ, 三木未希, なりたい自分になる, 企業コーチング, 手相, 手相観, テソーミ, テソーモミルコーチ, オンライン, オンラインコーチング,

 

生まれてから22歳くらいまで編です。どうぞ

 

+++

そこそこ恵まれていたと思える普通の勤め人と専業主婦の家に生まれました。奈良県の古い町です。第一子で初孫だったので、たぶん可愛がられ度大だったのでしょう。

幼稚園、小学校時代は、なんとなくそんなに楽しくなかったような。砂場道具の取り合いとか、リーダー格の女の子をみんなでちやほやしなきゃいけない感じが苦手で、ひとりで好きなことをしている方が楽でした。本大好きな子。

そんな感じだったので、地元の中学校へ行かせるのはマズいのでは?と思った母に、私立の中学校へ行くことを提案されます。小学校5年生の冬から近所にある塾へ通い始め、意外と良くできたのでたのしく受験するつもりだったのですが。小学校6年の冬休みになぜかすべてが嫌になり、大詰めのお正月をのんびり過ごすことになります。わたし、なんでだ?と訳がわからなかったのが、グラフがどーんと落ちている理由。けれどあまり日をおかず、なんとなく塾へ復帰。無事に希望の学校へ合格します。(今なら、イップスと言われるような状態だったのかなーと思います)

同志社女子中学校へ入学すると小学校とは何もかもが大違いで。先生が教室でジャージ着てないし、ミシンも壊れていないし。群れる感じの友達も皆無で「ここは楽園か花園か」と思いながらたのしく過ごしました。委員会活動や、文化祭や、なかなかめずらしい課外活動にのめり込み、学校帰りは街歩き。カラオケとかもあまりない時代なので、おもしろい雑貨屋さんやエスニックショップ、高校生になってからはライブハウスなどを巡るのが日課でした。以降の人生「好き放題」の基礎ができたのがこの頃。まあそれなりに、この年代なりの仲間はずれや仲違いなんかはありつつも、基本的には好き放題に過ごします。そのまま(ちょっとしたトラブルはありましたが)同志社大学に進学し、体育会ヨット部でマネジャーを始めます。なんだかやっぱり王道の集まりが苦手なのは変わらず、飲みサーやテニスやバンドはできず。ここがわたしの居場所だ、と思えたのがヨット部なのでした(お酒はめっちゃ飲みましたけど)。

仲間!努力!勝利!みたいな学生生活を送っていたところ、全国大会で個人優勝したヨット部同期のエースがクラブを脱走します。理由を聞くと「自分が優勝したから、もういいかなーと思って」とのこと。はー?!わたしはあなたたちのためにやっていたのに!と馬鹿馬鹿しくなったのと同時に、自分の行動の理由を他人に見つけていたんだということに気づき、それはイカンと3回生の夏にクラブを辞めました。初めて暇な大学生の夏を過ごしましたが、イケてそうな男性も意外としょーもないのね、と知ったり(もにょもにょ)。それくらいヨット部の人々は、なんでも自分でできてかっこよかったんです。

3回生後期になると卒論のためのゼミが始まります。わたしは文化史学という歴史学を専攻していて近世社会史のゼミに入りました。テーマの選び方と指導してくださった先生との相性、また研究と学生生活の環境がばっちりフィットし、再びの超絶たのしい期がやってきます。卒論は学年トップの評価だったそうです。わたしの先生はひとりの人の日記を分析して研究をしておられます。「日記を書く日常」と「日記に書かれた日常」の違いを知ったことは、自分史上最大の発見でした。他にも書かれたことと本心の違いにデリケートになったり、主観と客観の使い分けができるようになったり、と、卒論を書くことは、今の仕事の基礎を形作っていたんだなあと思います。

 

続きはあした

人生グラフを書いてみた- my story- 2

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA