できると思ってやったから、できた
めぐみの御代の あしたの光 かがやけり ほがらかに
12月17日は、わたしの母校にとっては大切な日です。
キリスト教主義の学校で、日々の礼拝があり諸行事は基本的に礼拝の形式で守るという中でも
おそらく、在校生・卒業生・教職員全員が一番大切にしているクリスマスページェント(イエスの誕生劇。朗読と音楽で進みます)の日なのです。
冒頭の歌詞は、お馴染み「きよしこの夜」の一節。3番になるのでしょうか。
私たちのクリスマスページェントは、この節で終わります。
本当に、そうなればいいなと心から思ったので引用しました。
今年は、今までの常識がことごとく引っくり返るような経験を、全人類がしたと思います。
このクリスマスページェントは、閉じられた空間に皆で集まる形式で守られており
それは、暗闇からの光や澄んだ音、一体感や集まることの温かさを感じることなどのために
きっと無意識のうちに形作られていったものです。
撮影や録音は一切禁止。
地元テレビでは風物詩のニュースとして取り上げられますが、それも前日の総練習の時にしか取材を受けません。
今年はどうするんだろうと思っていました。
関係者の友人からの連絡で、それは見事に
通常と変わらない感覚で、時勢にあった形式に変わっていたそうです。
配信を使うこと
あんなにカメラを入れることをしなかったのに、決断に驚きました。
これはきっと、保護者とともにクリスマスページェントを守ることが、カメラを入れない決断よりもいい、と気づき
そして、軽やかに方向を転換できたからです。
こういう議論がまとまらず、結局できることもできなくなった、ということって多くないですか?
大切なパートである歌をうたう生徒は自分の教室で心の中で
役割のある生徒は万全の対策のチャペルで臨む。
扉、開いていました。今日の京都は雪だそうです。寒かったろうねえ。
聖歌隊や聖書朗読の役割の人は、マスクをしたままでもとても綺麗な声を響かせていました。
いくら自主性を重んじるというより自主性以外はない、くらいの勢いの学校でも
教職員の皆さんが「やる」と思わないと、できなかったはずです。
「できないな」と思って今年はやめても、きっと誰も文句は言えません。なのに、やった。
その「やる」という決断を支えるための、力。具体的にはお金や外部のプロの協力。
それがあるということは、それを支えている保護者の方や支援者がいるということ。
それぞれが、できることを持ち寄って、できると思って、できた。
なんと素晴らしいことでしょう。
本当に、わたしたちの母校はいい学校だ。
と、今日はコーチングっぽいようなぽくないような日記でした。
栄光館ファウラーチャペル 入り口からこっそりと。